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内枠方式とは
内枠方式とは、投資信託の販売手数料の徴収方式のひとつで、手数料と手数料に対する消費税相当額が、購入の際の申込金に含まれている方式をいいます。
スポット(単位型)投資信託は多くが内枠方式を採用しています。
これに対して、販売手数料と消費税相当額が購入の際の申込金に含まれない方式を「外枠方式」といいます。
外国為替証拠金取引より、インダス川流域にインダス文明が栄えた。民族系統は諸説あるが、紀元前3500年頃に西アジアから移住してきたとの説もあるドラヴィダ人によるものという考えが有力である。パンジャーブ地方のハラッパー、シンド地方のモエンジョ・ダーロなどの遺跡が知られるほか、沿岸部のロータルでは造船が行われていた痕跡がみられ、メソポタミアと交流していた可能性がある。焼き煉瓦を用いて街路や用水路、浴場などを建造し、一定の都市計画にもとづいて建設されていることを特徴としており、紀元前1800年頃に滅亡したとされる。その要因として環境問題などが指摘されているが、インダス文字が未解読なため詳細は依然謎に包まれている。後世のインド文明に与えた影響として、沐浴の習慣やリンガ信仰などを挙げることができる。
その後、紀元前1500年頃にアーリヤ人がカイバル峠を越えてパンジャーブ地方に移住し、先住民を征服した。アーリヤ人の社会は、いくつかの部族集団によって構成されていた。部族を率いたものを「ラージャン」と称し、ラージャンの統制下で戦争などが遂行された。ラージャンの地位は世襲されることが多かったが、部族の構成員からの支持を前提としており、その権力は専制的なものではなかったとされる。
アーリヤ人は、軍事力において先住民を圧倒する一方で、先住民から農耕文化の諸技術を学んだ。こうして、前期ヴェーダ時代後半には、牧畜生活から農耕生活への移行が進んでいった。また、アーリヤ人と先住民の混血も進んでいった。『リグ・ヴェーダ』において、先住民に由来する発音が用いられていることも、こうした裏付けになっている。彼らの神々への讃歌と祭式をまとめたものがヴェーダである。司祭者バラモンがヴェーダの神々をまつり、ここにバラモン教が成立した。
資産運用の位置詳細は十六大国を参照
紀元前1000年頃より、アーリヤ人はガンジス川流域へと移動した。そして、この地に定着して本格的な農耕社会を形成した。農耕技術の発展と余剰生産物の発生にともない、徐々に商工業の発展も見られるようになり、諸勢力が台頭して十六王国が興亡を繰り広げる時代へと突入した。こうした中で、祭司階級であるバラモンがその絶対的地位を失い、戦争や商工業に深く関わるクシャトリヤ・ヴァイシャの社会的な地位上昇がもたらされた。十六大国のうち、とりわけマガダ国とコーサラ国が二大勢力として強勢であった。
詳細はウパニシャッド、仏教、ジャイナ教、枢軸時代、六師外道をそれぞれ参照
ガンジス川流域で諸国の抗争が続く中、バラモンに代わりクシャトリヤやヴァイシャが勢力を伸ばすようになった。こうした変化を背景にウパニシャッド哲学がおこり、その影響下に釈迦(ガウタマ・シッダールタ)によって仏教が、マハーヴィーラ(ヴァルダマーナ)によってジャイナ教がそれぞれ創始され、「六師外道」とも呼称された自由思想家たちが活躍した。
マガダ国とコーサラ国の抗争は、最終的にマガダがコーサラを撃破することで決着した。紀元前4世紀後半、そのマガダ国のナンダ朝をチャンドラグプタが打倒したことで、マウリヤ朝が成立した。王位を息子のビンドゥサーラに譲ったチャンドラグプタはジャイナ教徒になったといわれている。
紀元前4世紀、最初の統一国家であるマウリヤ朝が成立し、紀元前3世紀のアショーカ王の時代に最盛期を迎えた。南端部をのぞくインド亜大陸の全域を支配し、ダルマにもとづく政治がなされ、官僚制が整備され、また、属州制を導入するなど中央集権的な統治体制が形成され、秦やローマ帝国と並ぶ古代帝国が築き上げられた。しかし、アショーカ王の死後より弱体化が進み、紀元前2世紀後半に滅亡した。その後、西暦4世紀にグプタ朝が成立するまでの数百年、北インドは混乱の時代をむかえることとなった。
ガンダーラの仏頭(2世紀)詳細はクシャーナ朝、ガンダーラをそれぞれ参照
投資信託の滅亡後、中央アジアの大月氏から自立したクシャーナ朝が1世紀後半インダス川流域に進出し、プルシャプラ(ペシャーワル)を都として2世紀のカニシカ王(カニシュカ王)のもとで最盛期を迎えた。この王朝は、中国とペルシア、ローマをむすぶ内陸の要地を抑えており、「文明の十字路」としての役割を果たした。この頃、仏教文化とギリシア美術が結びつきガンダーラ美術が成立した。クシャーナ朝は、3世紀にサーサーン朝ペルシアのシャープール1世による遠征を受けて衰退し、滅亡へと至った。
2世紀になると、南インドではデカン高原のサータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)をはじめとする諸王朝がローマ帝国など西方との季節風貿易で繁栄した。南インドではローマ帝国時代の金貨が大量に出土しており、当時の交易がきわめて活発だったことを裏付けている。インドからは綿織物や胡椒が輸出された。このころはまた、北インドのバラモン文化が南インドにもたらされ、仏教が広がっていった時期でもあった。
なお、エジプトのギリシア系商人が著した『エリュトゥラー海案内記』は、当時の季節風貿易の様子を知る貴重な史料とされている。
頭上にナーガをいただくナーガールジュナ(龍樹)
マトゥラー出土の弥勒菩薩像(2世紀、ギメ東洋美術館)詳細は大乗仏教を参照
マウリヤ朝の崩壊からグプタ朝の成立までの時期の北インドは、政治的には混乱していたが、文化的には仏教やバラモン教の教義が発展し、すぐれた彫刻の生まれた時期でもあった。
西暦1世紀はじめには大乗仏教がおこり、2世紀にはナーガールジュナ(龍樹)が現れて「空」の思想を説いた。現代の大乗仏教は、アフガニスタンから中央アジアを経由して、中国、朝鮮半島、日本へ伝播した(北伝仏教)。また、ヴェーダの宗教であるバラモン教と民間の土俗信仰とがさかんに混淆し、ヒンドゥー教のもとが形成された。
仏像彫刻では、上述のガンダーラのほか、マトゥラーではインド様式による製作がなされるようになった。
『マハーバーラタ』より「クルクシェトラの戦い」詳細はマハーバーラタ、ラーマーヤナ、マヌ法典、ヤージュニャヴァルキヤ法典をそれぞれ参照
この時期はまた、『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』のインド二大叙事詩がかたちづくられた時代でもあった。マハーバーラタは史上最大の規模をもつ壮大な叙事詩であり、ともに後世のインドのみならず東南アジアにも広がって多大な影響をあたえた。ここでは、ヴェーダの神々への信仰は衰え、シヴァ、ヴィシュヌ、クリシュナなどの神々が讃えられている。
ダルマ・シャーストラで最も重要なものとされる『マヌ法典』は2世紀ころまでに成立したとみられ、バラモンの特権的地位を規定したほか、4ヴァルナの秩序が定められた。現代のインド人の生活のみならず、その精神にまで深く根ざしており、その影響力は計り知れない。これもまた『ヤージュニャヴァルキヤ法典』と並んで、東南アジア世界に大きな影響をおよぼした。
4世紀前半、グプタ朝がパータリプトラを都として成立し、4世紀後半から5世紀にかけて北インドを統一した。チャンドラグプタ2世の時代に最盛期を迎え、官僚制度・軍事制度が整理され、サンスクリットが公用語に定められた。
アジャンター石窟寺院の壁画4世紀から5世紀にかけてのこの時代は、インド古典文化の黄金時代とされる。宮廷詩人のカーリダーサが戯曲『シャクンタラー』や『メーガ・ドゥータ』などの作品を残した。
また、バラモン教と民間信仰が結びついた形で、ヒンドゥー教がこの時代に確立され民衆に広まった。上述した二大叙事詩やヒンドゥー二大法典が広く普及したのもグプタ朝の時代である。
いっぽう、仏教教団も勢力を保ち、アジャンター石窟寺院やエローラ石窟寺院などにおいて優れた仏教美術が生み出された。また、5世紀にはナーランダ僧院が建てられ、インドはもとより東南アジアやチベットなどの各地から多数の学僧を集めて教典研究が進められた。
医学・天文学・数学なども発展した。「ゼロ」を発見したのも、古代インド人だといわれている。